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老年科医のひとりごと 第22回

離島の老人

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 11月の連休の初日は秋晴れであった.思い立って妻と佐久島へ行くことにした.日帰りができる距離にあるが,私のように信州の山の中で育った者にとっては海を渡るのは勇気がいることだった.
 佐久島は人口252人でそのうち142人が65歳以上であるとインターネットの紹介に書いてあった.信号機もコンビニもなく,島の80%以上が里山で懐かしい集落が見られるとも書いてあった.そしてアートによる島おこしに取り組んでおり若者にとってはインスタ映えの風景が多い島だそうだ.
 観光客が多かった.多くの若者がレンタル自転車に乗って島を巡っていた.私は島の西の港から東の港までを歩いた.
 観光客用に整えられた民家の間に庭に雑草が生えている寂しげな家があった.
 私は83歳の男性で私のクリニックへ通院している吉田さんのことを思い出した.佐久島の出身で60年前に名古屋へ出てきて生活している島の長男である.実家は誰も住んでいないので荒れ放題であると言っていた.
 私も信州の田舎の長男である.私たちは故郷に対する懐かしさと後ろめたさを共有する者同士であった.2人は生まれ故郷を捨て,都会を目指してきた者だ.
 最近の吉田さんは佐久島の話をするときは浮かぬ顔をしている.お墓の掃除や伸び放題の庭の手入れは無理になってきたからだ.島へ行くことさえままならなくなった.
 隣近所の住人が留守宅に気を使ってくれている.しかし留守の間,島を守ってきた友人たちも年老いてきていると言っていた.
離島の老人(トリミング済W340) コスモスの畑を過ぎて,海が見え始める防波堤の曲がり角に手押し車を押す人が見えた.自転車の若者たちの横を地面を向いて歩いていた.島を懸命に守ってきた老人である.
 苦し気に足元を見つめてこちらへ向かって歩いてきた.海を背にした顔には深いしわが刻まれていた.小柄な人であった.
 私に顔を向けて精いっぱいの笑みを浮かべて「こんにちは」と明るく言った。
 私はなぜか涙が出そうになった。
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