旅の途中
井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
日曜日に家の前の坂道を見下ろしていると賑やかな声とともに数人の人影が現れた.
見物人の一行である.おじさんは腰に小物入れをぶら下げている.おばさんたちは帽子をかぶり運動靴である.
観光客が電車を降りて商店街を抜けると住宅街に出る.住宅街の1kmほどの先に桶狭間古戦場公園がある.
駅を降りて私の家の前を通り「古戦場の跡」へ向かうのが最近の観光ルートのようだ.
私の住んでいる地域には信長の争った古戦場があちこちにある.桶狭間の合戦を描いた江戸時代の絵図はあるが,「現在の地形に合わない」のだそうだ.だから本家争いを繰り返している.
「桶狭間古戦場公園」も集客のために最近作られたものだ.
ガイドらしきお爺さんがぼんやり雲を眺めている私を見つけ「あのあたりーーー」と指を指す.私の家の辺りが戦場であったと説明しているようだ.
この台地に宅地造成で移り住んできた住民が集落を作ったのは20年ほど前であった.それまではこの辺りは森林であったという.土地区画整理組合が保留地として開発して集落ができた.だから織田信長とは縁もゆかりもない人たちが集まってきて住むようになった.
住人は町内会を組織して,子供会を作り秋の祭りをするようになった.私は15年前から住んでいるが,医者であることを知った当時の町内会長に頼まれて健康相談を引き受けることになった.
私が信州に帰還することが母親の悲願であった.私が長男として出なければならないのは信州の村の祭りであった.名古屋での住まいは仮住まいで,旅の途中である.
健康相談役の医者を頼まれたときは臨時の脇役のつもりであった.
秋祭りに出席する住人は数年ごとに入れ替わる.
見渡せば当初から秋祭りに出席しているのは私と血圧を測定しに来る3人の老人だけになった.
観光客は空を仰ぐ私を見て,古戦場で戦った野武士の末裔であると思うかもしれない.
向かいにある雑木林の空には故郷の遠いあの日のように白い雲が浮いている.