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老年科医のひとりごと 第11回

花どろぼう

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 庭に出て空を眺めていた.
 わが家の向かいは女子大学の付属の幼稚園の駐車場である.雑木林が駐車場を囲んでいる.
 家は傾斜した地面にあり幼稚園とわが家の間に二車線の道路がある.庭からは道路を見下ろすことになる.
 道路の向こう側には側溝があり駐車場の金網のフェンスとの間にわずかな隙間がある.私は落ち葉の溜まったその隙間にアネモネの球根を埋めておいた.秋の終わりであった.
 雑木林にタケノコが出るころにアネモネが芽を出した.
 細い茎が伸びて柔らかなお手玉のような蕾ができると,その花の色は紫であることがわかった.
 数個の球根を埋めたはずだったが芽を出したのは1つだけであった.
 それは土曜日の昼前で雑木林の中に混じっている山桜が緑の葉をのぞかせていた.
 空気は冷たくて,いつもは騒がしい幼稚園から物音の漏れてくることはなかった.道路に人影はなくアネモネが風もないのに揺れていた.
 右側から声がして人影が現れた.
 母親が3歳くらいの娘の手を引いてゆっくりと歩んで来た.左手にバックを抱え右手で娘の手を握っていた.2人が現れると空気が暖かくなった.
 2人が春を運んできた.
 母親は紺のワンピースを着た眩しいような婦人であった.
 幼い子供を連れた女性ほど美しいものはないと私は思っている.小児科医は人生の中で最も綺麗な時花どろぼう(W300)期の女性に出会うチャンスが多い職業だ.老年科医はその機会に恵まれない.
 幼子がアネモネをみつけた.目ざとくみつけたアネモネに向かって右手を伸ばした.私は母親が止めてくれることを期待した.しかし私の切なる期待も空しく,母親は手を放した.
 私が「どろぼう!」と叫ぼうと思ったときにはアネモネは幼子に摘み取られていた.
 そして2人は幸せそうに曲がり角に消えた.
 空には白い雲が流れていた.

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