鉢植えの花
井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
山脇さんがベランダに出て遠くに霞んでいる山脈の辺りを眺めていると,にわかに猛烈な雨が降ってきた.
ここでは山が見えない.田舎では山はいつもそこにあるものだった.青い空と白い雲のように.
夕立がくると庭に置き去りにされていた農機具や洗濯物を家の中に取り込まなければならなかった.都会のマンションのベランダではそうした慌ただしさとは無縁である.
名古屋に来てからは汗が出なくなった.信州にいた頃は玉のような汗が体中から吹き出たものだった.
糖尿病を患っているので汗が出ないのは自律神経障害があるからだろうと医師は言うが,そうばかりとも言えないと思っている.名古屋の暑さと信州の暑さは何かが違う.今は朝から晩まで皮膚の下に潜んでいる不愉快な物質に全身が覆われているような気がしている.
彼女は83歳である.子供は娘が1人.名古屋の人へ嫁いで,名古屋で生活をしている.
5年前に「まだ元気なうちに」と娘の言われるままに名古屋へ出てきた.娘夫婦のマンションの隣にマンションを買って住むようになった.
夕立の豪雨はひとしきり経つと嘘のように過ぎ去った.街路には水が溢れ出ているがベランダの鉢植えは水気がないままだ.
鉢植えの花は何処にも根を伸ばせない.
娘も,娘の家族も優しい.かかりつけ医も,救急医療体制も整っている.近くには文化施設もあり,プールもある.そして病院や高齢者のための施設にも恵まれている.
彼女は月に1度,私の外来に来る.
いつも饒舌である.「まー,先生のおかげで私は生かされているようなものです.先生のお傍に引っ越してこられて私は何て幸せでしょう!私は皆さんのおかげで生きています」
しかし,私には,微かに覗く彼女の寂しげな表情から「鉢植えはいやだ.田舎に帰りたい」と思っているのがよくわかるのである.