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老年科医のひとりごと 第8回

夏の終わり

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 大学からの帰路に小路がある.コンビニエンスストアを過ぎて丁字路を右に回ると,左側に松の木があり,小さな家が並んでいる.
 道路は2車線であるが道幅は狭くて対向車が来ると車の速度は自然に落ちる.
 帰路はいつも夕方である.夕暮れの中に家の灯りが灯る.
 いつもは幹線道路を通っているのだが,その小路を通過してみたくなるのは故郷である信州の寂しい夕暮れの気配を感じるからである.
 500メートルほど進むと林があってその向こうに池がある.
 池のほとりに夕焼けに染まる壁がある.柿の木とともに建つ小さな家の壁だ.
 暮れかけてよく見えないが庭にはホオズキが赤い袋を膨らませているかもしれない.
 今は夏の終わりだ.
 お盆が過ぎて秋の虫が鳴き始める前,まだ夏の太陽はそのままで,風はそよがず,夕立も来ない夏の日の午後.
 空には夏の名残の虚しさが漂い,秋の気配はない.
 赤とんぼにはまだ早く,ムギワラトンボはもう飛ばない.
 私はきまって憂鬱な気分に襲われる.
 そういう季節を70数年繰り返してきた.
 私の脳の深部にこの感覚が蓄えられたのは,70数年前のこの季節に父の戦死の連絡が入ったからに違いない.私の父は私が1歳のときに戦死している.母はまだ20歳の若さであった.
 路の終わりに小さな精神病院がある.壁に雨の跡が流れており,全体に赤茶けたくすんだ建物であ%e5%a4%8f%e3%81%ae%e7%b5%82%e3%82%8f%e3%82%8a%ef%bc%88w300%ef%bc%89る.看板には「看護師募集」とある.
 
人手不足の病院には夕焼けに「家に帰りたい」と叫ぶ高齢者が入院しているに違いない.
 夕闇に母を求めて泣いている子供がいるかもしれない.
 夏の終わりに私が悲しくなるのは,母の背中で母の泣いていた肩の震えを思い出すからだ.
 私がその路を辿りたくなるのは路地から覗く夕焼けの空に微かに母の面影を忍ぶためだ.

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