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老年科医のひとりごと 第79回

ポケット

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 ズボンの後ろの左側のポケットに財布を入れて持ち歩くのが長年の習慣である.財布には免許証,マイナンバーカード,診察券や銀行のキャッシュカード,それに最近ではカード型の車のキーが入っている.発作性頻脈用の薬も入れてある.
 左の尻に触って私の財産の存在を確かめる癖がついている.
 右側のズボンのポケットには7つの鍵を1つのリングにつなげて入れてある.家の玄関や研究室のドアや机の引き出しの鍵などである.そのうちの1つは何だかわからん鍵だ.何だかわからん鍵は捨ててもよさそうなものだが,何だかわからんので捨てるに捨てられずに持っている.
 重装備のロボットの足のように重いので,小便をするときにベルトを緩めるとズボンが足元まで滑り落ちてしまうことがある.
 ガラケーはシャツの胸のポケットに入れていた.左の胸に触っては,存在を確かめていた.
ポケット (W220) だから私のシャツには左の胸のポケットが必須であった.最近のポロシャツには胸のポケットがない.老人のマーケット調査がこの国ではなおざりにされている証拠である.
 近い将来ガラケーの終焉の時代が到来すると脅かされてスマホに変えた.スマホは大きすぎて胸ポケットに入らない.やむを得ずカバンに入れて持ち運ぶことになったので,電話は私の肉体とは離れて存在する.
 いつでもカバンが傍にある訳ではないので電話が掛かってきても即座に出られない.そのことを心配していたが,心配は無用であった.思わぬところから電話が掛かってくることがないのが,老人のようだ.
 その代わり詐欺の電話はよく掛かってくるが,それは固定電話であって携帯電話に掛かってくることはない.
 左の胸に手を当てても,いつでもそこにあった愛しのガラケーがない.
 遠い日の思い出にたどり着けないような寂しい気分になる.
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