君に会いたい
井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
私たちの学生時代は昭和40年代の前半であった.学生運動の荒波が世界を襲っていた時期である.名古屋市の郊外にあった教養部を終えて鶴舞の医学部へ移るときにN君と2人で雑貨屋の2階へ隣り合って入居した.4畳半の畳敷きのそれだけの部屋であった.風呂やトイレは共同であった.
2人で詩集を作った.N君が大きな画用紙にクレヨンで絵を描き,私の作った詩を彼が書き写してくれた.
その詩集は私が保管しているはずであったが大学を卒業後は見たことはなかった.
卒業後20年ほど経ったときに「いつかその詩集を2人で見ようね」と言い合ったことはあったがそのとき以来忘れて過ごしてきた.
N君は,今は海の傍らの町でのんびりと患者を診ながら余生を過ごしているはずだった.
私は今年も多くの人に年賀状を書いたし,年賀状をもらった.なかには数名「もう年齢を取ったので年賀状は今年で終わりにします」と書いてあった.永遠に会えなくなるのかと思うと寂しい気分になった.
私は一度,死んだと思われた身だ.
「私は生きています」と年賀状を書いて誤解を解いたばかりだ.今度誤解されたら取り返しがつかなくなりそうだ.だからこれからも年賀状を出し続けるつもりである.
「久しぶりに会いたいね.僕が詩を書いて君が絵を描いて2人で詩集を作ったよね.その2人だけの詩集を持って君に会いに行くよ.そのうちにきっと」
そういう年賀状をN君に出そうと毎年思い思いしながら幾年月も過ぎた.
年明けに同窓生のA君が亡くなったという連絡があった.私は同窓会の連絡網の幹事を務めている.この頃,同窓生の死が続き連絡網に穴が生じている.
だから今まで直接連絡をしたことがなかったN君へ私から電話をかけた.奥さんが出た.「先日亡くなりました」と言った.
コロナ騒ぎである.情報は閉じ込められて彼の死は孤立していた.妻に自分の死を誰にも知らせるなと命じたそうだ.
私は書棚の奥の方に下敷き代わりになっていた彼と作った詩集を取り出して呆然と眺めた.