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老年科医のひとりごと 第65回

幻の学会

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 

 6月11日から開催の今年の日本老年学会総会の会長をやることになっている.
 今日はその3日前である.
 私が会長になることが決まったのは8年前であった.
 その年の8年後とは7年後に行われる予定の東京オリンピックの翌年であった.
 その頃の私は癌に侵されて生死の境を漂っていた.周辺のリンパ節への転移が認められ,5年後の生存率は10%程度のⅣ期の食道癌であった.
 「私は8年後には死んでいると思います」と口に出すのは憚られたので断ることはしなかった.誰だって8年後に必ず生きているという保証はなかったが,私の場合は周囲の医者の全員が「生きてはいまい」という見解で一致していた.
 学会側も「あいつが生きているとは思わないが,死を想定した予定は立てられない」ということで私に決まったのではないかと思われる.
 私にとって幻の学会になるはずであった.
 しかし多くの人の想定を覆して,そして何より私の予想に反して私は死なずにいる.
 想定外だったのはコロナ騒ぎである.そのせいでオリンピックは延期となり,学会はWEB開催になった.
 学会開催日の前に多くの発表は予め録画されて事務局に送られている.
 学会発表の展覧会である.私の会長講演もできあがっており,画面に流すだけになっている.パワーポイントのスライドショーを使い,原稿を作り,音声を記録した.
 最初は部屋着で自宅の部屋でやったが,思い直して大学の研究室へ出かけてネクタイをして背広を着て撮った.幻の学会(W280)
 その後見直したが1週間前になると,見るのも嫌になった.繰り返し練習することが上達につながるとは限らない.私の語尾不明瞭は一向に改善されなかった.
 自分の発表でも聞いていると眠くなる.
 既に学会が始まる前に終わったような気分になるのはどうしたことか?
 そうやってこれから学会を迎えようとしている.
 人が集まらない学会が始まろうとしている.
 思わぬ人にばったりと出会う機会がない学会が始まろうとしている.
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