コロナと衣替え
井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
衣替えをしようと思って洋服ダンスをみるとスーツとコートにビニールがかぶせてあった.昨年の春にクリーニング店から持ち帰ったままになっていたのだ.
国立大学を定年になってから,スーツを着て出勤するという生活スタイルから卒業していた今日この頃である.
スーツを着るのは公的な会議のときだけになっていたのだが,昨年は多くの会議が中止になるかリモートになった.リモートの会議ではセーターにノーネクタイで参加していたのでスーツを着る機会はなかった.遠出をしなかったためかなぜかコートは一度も着なかったらしい.
このような事情は私だけではなく,多くの日本人に当てはまるのではないかと思えた.
「新型コロナが流行ると人々は衣替えをしなくなる」という法則を思いついた.
大発見はふとした思いつきから生まれるものだ.
カッターシャツとズボンは老人の節度で毎週クリーニングに出していた.そのカッターシャツを携えてクリーニング屋へ出かけた.
私の発見した法則は誰にでも当てはまるはずであった.
「今年の衣替えは少ないんじゃない?」とクリーニング屋のおばさんにドキドキしながら尋ねてみた.特殊な事情が普遍化されたときは大発見の予感がする.
おばさんは言った.「そうなんですよ,今年は暇なのよ.閑古鳥が鳴いてるわ」
私の予測は見事に当った.昔の研究生活時代が蘇った.研究生活は勘違いによる恍惚感とそれに続く失意の連続であった.
私の大発見のすべてに再現性がなかった.しかし今回の発見はかなりの確率で確かだと思った.
次の週も私はカッターシャツを持って再びクリーニング屋へ出かけた.
おばさんが「今週は忙しくて,大変なのよ.先週までが嘘のよう.衣替えの人がいっぱい来るんですよ」と言った.
前回は衣替えにするにはまだ時期が早かったようだった.ただそれだけのことだった.
私の心の道路には昔ながらの狭い轍の跡がついていて今でもそのとおりに動いているようだ.