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老年科医のひとりごと 第76回

別名で保存

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 パソコンを使い始めた頃は文章を書くたびに「上書き保存」をしていた.文章は書き直せば必ずよくなると思っていたからである.
 あるとき,書き直して悪くなることもあるのではないかと思った.それ以来「別名で保存」するようにしている.
 先日,テレビのコメンテータが,ある事件の報道で「これは別名で保存して記憶しておかなければいけませんね.上書き保存すると忘れてしまいそうですから」と言っていた.
 正しそうに思えるこの発言は間違っている.
 人の記憶は上書きしても消えないし,別名で保存しても残らない.私たちは脳の中にビデオのような記憶装置をもっているのではない.
 人間の記憶は不思議である.どの程度記憶として残るのか?どのように残るのか?
 その日により時間によりなぜ思い出す記憶が異なるのか?私たちには謎である.
 心理学者のドラーイスマは著書『なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか』の中で次のように述べている.
 「記憶は思い出すことと忘れることを同時にやってのける.それはまるで性格の悪い秘書にあな別名で保存(W250)たの生活記録を付けさせるようなものだ.その秘書はあなたが忘れたいと思っていることは事細かく記録しているくせに,あなたの人生が絶好調のときはせっせと記録しているふりをして,実際にはまだペンのキャップすら外していない.思い出すたびに心が痛むような出来事は必ず消せないインクで記録されている.屈辱的な出来事は警察の調書のように,事細やかにはっきりと記録されている.憂鬱な時や別な嫌な事が起こった時に限って昔の嫌な記憶が蘇ってくる.相互参照という冷酷なネットワークによって不快な記憶は他の不快な記憶と繋がっている.不愉快な時は不愉快な記憶が蘇る」
 私たちの記憶が上書きされればどんなによいことだろう.
 そして「絶好調のときだけを別名で保存する」ことができればもっとよい.
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