終活

井口　昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

　降り続いていた６月の雨が止んで沿道のポプラ並木に太陽の光が降り注いでいた．夏の前に私の体力は萎えて化学療法の影響で私の心は重かった．妻の車の運転席の脇に座って通い慣れた道を大学の研究室へ向かった．
　通勤途上で毎朝新聞を買っていたコンビニに立ち寄る気分にはならなかった．沿道の焼き肉屋を見るのもこれが最後かなと思っていた．
　国立大学を定年になって勤め始めた私立大学での生活が６年過ぎていた．
　学生への講義とクリニックでの診察が私に課せられた義務であった．10代の学生たちとの付き合いは戸惑ってはいたが，新鮮なエピソードの繰り返しに満足していた．「おじいさん先生」と渾名をつけられたときは頭にきたが，幸い学生との間に大きなトラブルもなく平穏な日々であった．
　学生たちと一緒に行った大学近くの食堂で飲み込んだ蕎麦をすべて吐き出してしまったのは５月の初めであった．駆けつけた大学病院でつけられた診断は，末期の食道がんであった．私の命は風前の灯火で職場へ復帰できる可能性はなかった．
　妻は私を入院中の病院から連れ出して研究室の後始末の算段に来たのだった．妻の私の研究室への訪問は最初で最後になるはずであった．終活に来たのであった．
　入院中にたまっていた書類の山を前にして余命いくばくもない身にとって整理整頓は無意味に思えた．本棚の書籍は一括して古本屋へいく運命であった．日曜日の午後で研究棟には教官の姿はなかった．偶然出会った女性の先生との挨拶も通り一遍の挨拶の中に私にしては「お別れ」の意味が籠めてあった．見慣れた大学の構内も見納めとなるはずであった．

　あれから８年が経った今も私は生きている．
　私は狭い間隙を縫うような幸運に恵まれて生き残った．
　梅雨の切れ目の暑い朝にポプラ並木の坂道を車で通るときにはあのときの妻の心細そうな横顔が蘇ってくる．