万歩計
井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授
看護師が突然立ち上がった男を見つめて「何してるの?」と訊いた.男は黙ったままベルトを緩めてズボンの中へ右手を差し込んだ.
40歳代の看護師はベテランだ.患者の奇妙な行動には慣れていた.しかし診察していた医師が突然立ち上がってズボンの中に手を突っ込むのを見たのは初めての経験だった.
男はズボンに右手を突っ込んで何やら探していた.看護師の目が丸くなった.まさかヒトマエで,「この人ヘンタイ?!」と思った.男は黒い物を取り出して見せた.そしておもむろに蓋を開くと言った.「584歩だよ」.パンツの紐に安置されていた物体は万歩計であった.
その奇特な行動をとったのは私であった.そうなったのには深い訳がある.
日本老年医学会が発表したフレイルに私は該当しそうなのだ.疲れやすさの自覚,活動量の低下,歩行速度の低下,それに明らかに筋力は低下していると思われる.体重減少以外はすべて今の私に当てはまりそうだと思った.
私は万歩計を買うことにした.この頃の万歩計は進化し続けているようだ.
私はその薬局で一番高い万歩計を買った.しかし,高い万歩計は操作が複雑で肝心の歩数の表示を出すのに毎回苦労した.私は歩数を知りたいだけなのだ.
そこで学習した私は再び薬局へ出かけて一番安い万歩計を買うことにした.安い万歩計は歩数しか表示されないので蓋を開けるだけでよい.しかし,短所はバネ仕掛けになっていてズボンやベルトに挟んで装着する仕組みになっていることだった.しょっちゅうはずれるのである.直ぐに紛失してしまう.そのたびに薬局へ行かなければならない.
そこで考えたのがパンツへの装着であった.そうすれば外れることはない.よしんば外れたにしても足元に落ちるまでにはズボンの中のどこかで引っかかって気がつくはずだ.
その日,診察の途中で患者には「歩け,歩け」と言うが自分たちはどれくらい歩いているだろうか?という話題になった.看護師は「私は4,000歩」といい,私は冒頭のように歩数を確かめたのだ.
確認が終わると私は再び万歩計をパンツに装着して外来を再開したのだった.