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老年科医のひとりごと 第43回

土砂降りの前に

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 朝9時から洗濯をした.テレビの天気予報では大雨になると言っていた.
 6月の初旬で肌寒い日であった.窓を開け放すとレースのカーテンが部屋の中に流れ込んでは戻っていく.
 妻は土曜日でも働きに出かけるので,休みである私が洗濯をすることにしている.
洗濯物をそのまま乾燥機に入れると時間がかかる.少しでも天日に触れると驚くほどに時間を短縮できることを私は知っている.
 洗濯物を取り出してベランダの物干しにかけた.
 大気が洗濯物を乾燥させることは,自然治癒を待つ病人の気持ちに似ている.
 私は内視鏡による食道癌の切除術を受けるために大学病院へ入院した.
その日は退院して3日目だった.
 私の末期の食道癌発症から6年経った.放射線と化学療法による治療をした後,半年ごとにCTと胃カメラで経過をみてきた.
 検査の日が近づくにつれて寿命の終わりを予感する日々であった.
 滝に注ぐ小川に浮かぶボートに乗っているような気分であった.幸いにも断崖は現れずに6年が経過した.小川の岸辺のすみれや,流れの渦を楽しむ心境になっていた.
 今年の春,最後の仕上げのつもりで胃カメラに臨んだ.雨の日の洗濯(W220)
 その検査が終わればやがて川の流れは老後という海原に流れ込む筈であった.しかし何という運命か,初めとは違う場所に早期の食道癌が発症していることがわかった.いわゆる重複癌というやつである.
 幸いなことに内視鏡による切除が可能であった.
 雨が降り始めてきた.
 私は慌てて洗濯物を取り込んで乾燥機に入れた.
 その直後に土砂降りとなり,洗濯物はずぶ濡れになるところだった.
 乾燥が終わって乾燥機から衣類を出して抱きかかえると心地よい暖かさが伝わってきた.

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