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老年科医のひとりごと 第3回

忘れられたチョコレート

井口 昭久
愛知淑徳大学健康医療科学部教授

 74歳の早川さんは紙袋を持って診察室へ入ってきた.皺の集まった目じりからぱっちりとした瞳が覗く魅力的な女性である.診察が終わると恥ずかしそうにその紙袋を看護師にみつからないように私にこっそり押し付けて出て行った.うっとりとして恋する表情であった.私はこの頃,高齢の女性に恋されていると感ずるときがある.しかし私にその気が全く生じないので問題にはならずに済んでいる.その贈り物を目ざとくみつけた看護師が言った.「それどこかで見たような気がする」.
 「あ!これ,これと同じだわ」と言って診察机の横にある棚から同じ紙袋を取り出した.
 昨年から診察室の棚に気になる紙袋があった.誰のものか不明であった.
 診察室は日替わりで医者が診察に当たっている.看護師も当番で毎日替わる.だからその紙袋は誰の持ち物か特定されずにいた.
 患者が医者へ贈り物を持参するという風潮が改められたのは,20年ほど前からである.最近では,医者は贈り物を受け取ることはなくなった.患者も持ってこないようになった.
 しかしバレンタインデーのチョコレートは微妙である.
 そこには女性の密かな愛の証が秘められている場合もあるからである.画一的に断っていいものかどうか迷ってしまう.チョコレートに関心はないが行為は尊重しなければと思うのある.
 choco以前からの紙袋が置かれていた診察台の横の棚は雑然としている.電話機があり,薬の本があり,患者用の糖尿病手帳などが置いてある.
 誰が置き忘れたものか不明なまま春を迎え,夏を過ぎ,秋から冬になって,ついに2月の2週目を迎えた.
 チョコレートが入っているらしい紙袋は誰の所有か分からぬまま1年が過ぎた.
 今回,早川さんは昨年と同じ物を持ってきた.不審な品物は昨年のバレンタインデーに彼女から私へ贈られた「愛の証し」であった.

 

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